「ふぅ、疲れた…」

 きん、と張り詰めるような寒さが逆に心地いい。
 境内に出ると、神社の階段の下のほうから、祭りの余韻を楽しむ人たちの声が聞こえてくる。
 境内の中にもまだ人影は見えるけど、ゆっくりと皆が神社を後にしていく。

「んーっ」

 私は、ひとつ伸びをして神社の奥殿のほうに足を向けた。
 さっきまでの華やかさも残る本殿とは対照的に、奥殿にはしっとりと落ち着いた風情がある。
 幼いころ父さんは、この神社では奥殿が神様の控えの間となっている、と教えてくれた。

「やっぱり、ここは落ち着くな…」

 地味だけど、人気もなくて静かな、どこか懐かしさを覚える奥殿は、私のお気に入りの場所だった。
 去年までは祭事の時には神様がいるから入ってはいけないと言われていたけど、
今年からは神様のお世話をするのも私の役目。

 幼いころになくなった母に代わって私を育ててくれた父が病気で亡くなったのは、今年のはじめのことだった。
 本当なら、今日のような祭事も今年は控えるべきだったのかもしれないけど、
この祭りは1年に1度しかない、人々の安寧を神に願う行事。
 これだけはきちんと成し遂げようと、何ヶ月もかけて準備をしていた。

「うまくいきました、協力してくださって、ありがとうございます」

 私は奥殿に向かって小さくつぶやく。いつもの形式ばった祝詞ではなく、自分の言葉で、自分の思いを口にしてみる。
 いつの間にか辺りは暗くなり、大きな満月が地面の雪と奥殿を照らしていた。
 今本当にここに神様がいるのかどうか、そこまでは私にはよくわからないけれど、
いつも1人のこの神社になんとなく温かみがあるような気がしていた。

「あ…」

 ふと、奥殿の隣に植えている木の枝の1つに雪が積もっているのが目に付いた。
 奥殿は神様の控えの間。いつも綺麗にしていなければならないのに、この雪が奥殿に入ってしまっては大変だ。
 それに、このご神木は神社をずっと守ってくれているもの。雪の重さに耐えかねて枝を折ってしまってはいけない。

 少し高いが、払おうと背伸びをして枝に手を伸ばし、なんとか雪に触れたとき。

 ぱきっ、と乾いた音が鳴って雪が載ったまま枝が折れ、私はあわてて受け止めた。

「うそ…」

 思いのほか力を加えてしまったようだ。幼いころ神社の木を折って父さんにとても叱られたことが頭をよぎる。

 その瞬間。

 バチンと大きな音がして、急激に周りの温度が下がった気がした。

「な、なに…?」

 奥殿のほうを恐る恐る振り返って、私は息を飲んだ。
 夜の境内を照らす金色の月の光。それを跳ね返すかのような銀色の光が、視界いっぱいに広がっている。
 そして、その中に黒い人影が…。

「おい」

 光を背にして、黒く染まった人影がゆっくりこちらに歩いてくる。声には隠そうともしない不機嫌をにじませて。
 始まりと同じように唐突に光が消え、その人影の姿が月明かりを浴びてはっきりとした。

「おい、そこのお前のことだ、木の棒もってぼーっとしてる」

 彼は私を指差して、不機嫌そうに眉を寄せている。
 整理できずに口をパクパクさせている私に、彼は少し困惑の色を混ぜたため息をついた。
 刹那、パチンという鋭い音とともに額に熱が走る。

「った…っ!」

 思わず弾かれた額を押さえて、私は反射的に少年を睨みつけた。
 彼はそんなわたしの顔を少しだけ驚いたように見つめ、それからふっと目の色を和らげる。

「落ち着いたか」

 問いかけで、ようやく考える余裕ができたことに思い至る。
 目をそらさないまま何度か頷くと、彼もひとつだけ頷いて私から離れた。

「聞きたいことがある。何が起こった?」
「え…?」

 言っている意味がわからず、首を傾げて聞き返す。彼は頭を掻いて頭上の耳をぴくぴくと動かした。

 …頭上の、耳?

「あ、あなた、その動物耳なに?それに、そのしっぽ…!」
「ん、何だ、今気づいたのか」

 慌てる私をよそに、彼は落ち着いて答える。

 そ、そういえば、着ているものもなんだか不思議だし、雰囲気もなんというか、
透き通ったみたいなのに威圧感があるし、それに、この懐かしいかんじ…

「あなた、もしかして、神様…?」

 必死にたどり着いた結論を口にしてみると、彼は事もなげにそうだ、と頷いた。

「お前はこの社の者か?」

 こくこくと頷く。

「私はこの社で神主の代理を務めている、朱里っていうの」

 神様だと頭では理解しているのに、少年の中になんだか親しみやすさを感じて、自然と言葉遣いは砕けてしまう。
 だけど彼のほうも、そんなことには気を向けないようだった。

「そうか、じゃあ、俺をここに降ろしたのはお前か?」
「うん」
「…なぜ神主の代理なんだ?俺を降ろすのを代理にやらせるっていうのは随分と失礼な話だろう」
「…それは、今年の初めに神主をしていた父さんが亡くなって、それで私が…」

 ふと、思い出さないようにしていた寂しさがよぎって俯いてしまう。彼は私を見て、それからそうか、と小さく口にした。

「人というのは、脆いものだな」

 そう言って、丸い月を見上げる。金の光は彼の銀の髪の毛を輝かせて、私はその様にしばらく見入ってしまった。

「で」

 先に沈黙を破ったのは、彼だった。

「これはどういうことなんだ?ここで待機していたら、社が織り成す結界がいきなり消失した。何が起こった?」

 そのとき、手に冷たい雫が伝い、私はその場所に目をやった。
 手に握っていた枝の雪が溶けてしまったようだ。
 そこでようやく、自分が起こしてしまった過ちに気づく。
 彼が出てきたことに気を取られて失念していたけど、私…っ!

「どうした?」

 声を上げて、手元を見つめたまま固まる私の視線を追い、彼もまたその枝に行き当たる。
 それから、目線を私の後ろの神樹へ…

「ひとつ問おう。それはなんだ」

 落ち着いた物言いがすこし上ずっている。私は固まった頭と口を必死に動かした。

「さ、さっき、この枝に雪が積もっていたのが見えて、奥殿を汚したり枝が折れたりしたらいけないと思って
払おうとしたら、ぽきっと…」
「……は?」
「この、神樹の枝が折れて…」

 …間があった。2人とも状況整理をしているのだろうなと、なぜか他人事のように考えていた。
 やがて、彼が幼子を諭すような口調で話し始めた。

「いいか、この神樹は神社を中心として、この町を瘴気から守る結界を構成している。

そして、その枝が折れると、結界の均衡が崩れ、形を成さなくなってしまう。…ここまではいいか」

「はい、よくご存知で…」
「つまりだ、今、結界が消えたのはお前がその枝を折ったため。
これで結界が崩れたということは、町の中に瘴気が…」

 だんだんと声が小さくなっていく。次の瞬間。

「何いぃぃぃぃっっ!!?」

 神狐の絶叫が境内に響き渡った。