「…詩桜…」

 ほとんど動かない唇を動かすと、空気のような言葉が漏れる。自分の声すら自分で聞き取れないままに、同じ名前を繰り返した。

 彼が無事なら、自分はどうだってよかったのに、どうして呼びかけに応えがないのだ。
 重たい足を引きずって、目前で真っ赤に染まった空を睨みつけた。


 綺麗な夕日。心の中までで温かくなる。
 だけど、どうしてだろう、こんなに胸が騒ぐのは―――。


「おい、雪那、起きろ!」
「もう、なんなの…?せっかく気持ちよく寝てたっていうのに…」
「なんなのじゃない、働け。タダ飯ばかり食らってないで」
「や、でもほら、僕ってあどけない子兎だしさ。ねぇ、朱里ちゃんもそう思うでしょ?」
「え、私?」

 縁側に寝そべった雪那に急に話を振られて、慌てて見つめていた空から目をそらし、縁側を振り返る。
 意識をすると出し入れが自由だという兎の耳をはやした雪那は、にやにやと面白そうに笑いながら見つめてきた。

「なに柄にもなくたそがれてるの?」
「た、たそがれてなんかないよ、ただ…」
「ただ?」

 私は考えながら、漠然とした感覚を少しずつ口にしていった。

「ただ、よくわからないけど…なにか、起こった気がして…」
「なにか?」

 私の言葉に、今まで黙っていた輝月が怪訝そうに尋ね返す。

「なにかはよくわからない…それに、起こったんじゃなくて、これから起こるのかも…
でも、なんだか変な感じがするの。何かが近づいてくる、みたいな…」
「近づく…」

 思案するように俯いた輝月に対し、雪那はふふっと小さく笑った。

「近づく、か…わかってるじゃない。でも…」

 意味深そうに言葉を切って、雪那が外を指差す。それを追って鳥居の方に目を向けて…

「あ…」

 そこに佇んでいる人影にようやく気付く。人影は、よろよろと2,3歩おぼつかなく歩いたが、すぐに力なく倒れこんだ。

「きゃ…っ」

 突然のことに小さく叫んでしまうが、すぐに人影のもとに駆け出す。そのすぐ後を輝月もついてきた。

「あ、あの、大丈夫!?」

 慌てて声を掛けるが、力なく閉じられた瞳は開かない。ぞっとして、輝月を見上げる。

「ど、どうしよう、この人死んじゃってるの!?」

 輝月はしばらく彼の体を見ていたが、やがて私の目を見返した。

「落ち着け。こいつの体をよく見てみろ」

 その言葉に、私はもう一度、倒れた彼の体に目を戻す。
 傷だらけだ。どこをどう歩いてきたのか、泥もかぶっていて衣も濡れそぼっている。
 着物の片方の袖に『阿』の1文字が記されており、ところどころ、赤い汚れもついていた。加えて、手足も、耳も尻尾も力なく地面に投げ出されている。

 …耳?しっぽ?

「…え!?この人、神様!?」

 よくよく見れば、輝月や雪那と同じように不思議な着物を身に付けている。
 まじまじと見つめていると、いつの間にかそばに来ていた雪那がからかうように口を挟んだ。

「やっと気づいたんだ?全く、鋭いんだか鈍いんだか…」
「そうだな、神かどうかはわからないが、人間じゃない。見る限り危険な状態でもないだろう」
「でも、こんなぼろぼろなのに…」

 血がにじみだしているところに手を当てながら、呟いてみる。
 とはいっても、ここの主は輝月だ。自分の判断で勝手に素性のわからないものは入れられない。
 黙ってうつむいていると、その考えを悟ったのか、輝月が一つ小さくため息をついた。

「こいつをどうするか、お前が決めろ。俺たちはお前に仕える身だ。お前の判断に従う」
「え…」

 思いがけなかった言葉にきょとんとしていると、輝月が黙って倒れた彼の腕を持ち上げる。

「輝月…?」
「匿いたいんだろう?お前がこんな状態の奴、放っておけるはずがない」

 体ごと持ち上げようとして、ずり落ちそうになったところに雪那が手を伸ばした。

「全く、お人よしっていうかなんていうか…」

 苦笑しながら輝夜に手を貸して、2人は彼を奥殿に運んで行った。


「ん…」
「お、起きたか」

 一番にそれに気づいたのは、布団の隣で様子を見ていた輝月だった。
 その声に安堵を感じながら、私も雪那とともに布団に駆け寄る。まだはっきりと覚醒していないのか、彼は緩慢に瞳を動かした。

「ここは…」

 消え入るようなかすれた声が漏れる。

「ここは神社。入ってきて急に倒れたんだよ」

 簡潔に状況を伝えると、彼はゆっくりとこちらを見た。

「たおれた…?」
「そう、3日くらい眠ったままで」
「…3日…」

 呟いた途端に何か思い出したのか、彼はがばっと身を起こそうとしたが、体に走った痛みに蹲る。

「おい、まだ動いたら…」
「いいんだ!俺は…俺にはやらなきゃならねぇことが…」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだ、今はおとなしく寝ておけ!」

 なんとか横にならせようとする輝月と、それに抵抗する少年に、私は戸惑って雪那を振り返る。
 雪那は一度私の視線を受け止めてから、珍しい苦笑を浮かべ、パンパンと2回手をたたいた。

「はいはい、2人とも落ち着いて。君も、そんなに暴れたら傷が開くよ?
せっかくこの子が丁寧に治療してくれたのに」

 その言葉で彼らは争いをやめたが、少年は怒ったような、困ったような、なにかに耐えるような不思議な表情をして俯いてしまう。

「助けてくれてありがとう。それと、礼を欠いて、悪ぃ…」

 やっと場が落ち着いたので、私は座り直して彼を見つめた。

「こっちこそ、急に乱暴をしてごめんなさい」
「おい…俺はこいつのためを思って…」
「はいはい、話の邪魔しないで」

 幼子をあやすような雪那の物言いに、輝月はむっとしたように黙り込んだ。私は気を取り直して彼に向き直る。

「私はこの神社の神主代理の神宮朱里っていうの。こっちが輝月と雪那」
「…俺は、成桜。川の上流で祀られてた」
「祀られて…お前、犬神か」

 輝夜の言葉に、成桜は俯いて小さく首を振る。

「いや、そんな大したもんじゃねぇ。
初めは神に仕える狛犬だったんだ。時が経ち、神が消えて、いつの間にか村人は俺たちを神として祀るようになった」
「なるほど、神の使いが神格化したというわけか。それで、土地の守り神としての役目を捨てて、なぜこんなところに?」
「人を、探してるんだ…」

 絞り出すように成桜は言う。その言葉が普通じゃないほど切羽詰まっていて、聞いていいのか迷いつつも、私は尋ねてみる。

「もしかして、その人って、『しお』っていう人?」

 当たったのか、成桜は目を見開いて私を見た。

「どうして知ってるんだ?」
「あなたが眠ってる間、何度となく呟いてたから…」
「その、しおって人はもしかして君の片割れなのかな?」

 考え込んでいた雪那が口を挟む。その言葉の意味がくみ取れず首をかしげるが、成桜はまた複雑な表情をしてうなずいた。

「そうだ。狛犬として祀られていたころから、あの社を2人で守ってきた。
なのに、川の氾濫で古くなっていた神社は壊れて、俺たちは別々に流された」

 成桜は悔しそうにこぶしを握り締める。

「何回呼びかけても答えが返ってこないんだ。どんなに離れても詩桜とは話せていたのに…もしも俺だけが助かったっていうなら、俺は…っ」
「あんまり騒ぐなって、ほんとに傷が開くぞ」
「傷なんかどうだっていいんだよ、あいつはもっと辛い目にあってるかもしれないんだ!」

 吐き出すように叫んで、成桜は立ち上がる。痛みもあるのかもしれない、苦しそうな表情で。

「ありがとな、助けてくれて。この恩はまた必ず返すからよ」

 そういって出ていこうとする彼の腕を、私はとっさに掴んだ。いきなり腕を引かれてバランスを崩し、成桜は慌てて踏みとどまる。

「っ…」
「ほら、そんな状態で行けるわけないでしょ。
もしそのしおって人が元気だったとしても、あなたが元気じゃなかったらきっと喜べないよ」

 なにを言ったら思いとどまってくれるのかはわからなかったけど、必死に思いを伝えてみる。

「それに、そんなぼろぼろの体で1人で探すより、私たちと…皆と探したほうが見つけやすいんじゃない?
輝月と雪那だって人間なんかじゃ比べ物にならないくらいの力があるんだよ。
私たちも協力するから、あなたはここに残ってよ。傷を治して、早く見つけたいんでしょ?」

 私の言葉に、考え込むように成桜は俯いたが、しばらくして、小さくうなずいた。

「…世話になる」

 ゆっくりと丁寧にお辞儀をしてくる成桜にほっとして、私はいつの間にか上った月を見上げた。

「ほんとに、お人よしなんだから…」

 聞こえた雪那の声も、いつもより柔らかいような気がした。