「っ、母さん!?」

 突然途絶えた反応に、嫌な予感を覚える。それはすぐに、予感ではなく確信に変わった。
 この異界にいても、母さんを通してわずかに伝わってくる人間界の気配。
 それにほんの少しだけ、禍々しいものが混じり始めている。

「……ち」

 思わず小さく舌打ちをしてしまう。あの社で、母さんに何かがあったに違いない。
 そうでなければ、ずっと昔から母さんが守ってきたあの町に、
禍々しい気配なんて入り込むわけがないんだ。

「母さん、僕が行ってきます。母さんの仇、必ず…」

 虚しく自分の声だけが響き渡り、その後は声も音もしない空白の時間が少し流れ、胸がちくりと痛んだ。
 その痛みを抱えたまま、母さんの苦しみを忘れないようにとギュッと胸の辺りを掴んで
僕は光の中へ飛び込んだ。


「お前は…自分のしたことをわかっているのか!?」
「ご、ごめんなさい…っ」
「謝られても困るものは困る!こうしている間にも、瘴気はこの町に入ってきているんだ。
早く結界を元に戻せ!」
「そ、そんなこと言われても…」

 言いよどむ私に神狐は目を瞬かせた。

「ま、まさかお前…、結界を元に戻せないのか…?」
「えっと…、その……。はい…」
「……っ」

 私の言葉を聞いた途端、狐神は大きく目を見開き、すぐに呆れたというような表情に変わる。

「……はぁ…」

 再び大きく溜息をついた彼はその場にあぐらをかいて座り込んだ。
 どうすればいいんだろう…。
 どうにかしないといけないと焦る気持ちと、そもそも今起こっている事態を飲み込めていず、
混乱している思いが入り混じり、途方に暮れていたその時――。

 ふわっ――

 目の前を白い物が横切った。それと同時にいきなり下がった気温に思わず身震いをする。

(これは、雪……?)

 その途端、白く輝いた強い光に包まれる。
 眩しさに目を閉じ、光が収まったのを感じて恐る恐る瞼を上げると、目の前に兎耳を生やした人が立っていた。

「こ、今度は兎の神様…?」
「いや、違うな」

 そう言うなり、神狐は立ち上がって私の前に庇うように前に出た。

「…え?違うの?」
「あぁ。恐らくこいつは低霊級に属する者だろう。ただ…」
「ただ…?」
「…一つ気になることがあってな。お前、普通の低霊級じゃないな?…何者だ?」

 神狐はさっきとは一変した態度で、殺気を放ち始める。
 それと同時に狐火が私の周りを守るように囲い出した。
 何者かと問われた兎耳の人は、冷めた目でこっちを見つめながら嬉しそうに微笑む。

「ふーん、君、よく僕のこと知ってるね。でも今、用があるのは君じゃない」

 そう言ったかと思うと、兎耳の人はあっという間に視界から姿を消した。
 それとほぼ同時に、首筋にひやりとしたものを押し当てられる。

「っ…、狐火を一瞬で……!おいっ!」
「…ねぇ、君が持っているその枝は何なのかなぁ?」
「ひっ…!」

 首筋の刃物がぎらぎら光る。
 恐怖に全身の震えが止まらない。足がすくみ、どうにか立つので必死だけど、
少しでも私が動けばこの刃物の餌食となってしまうだろう。

「ほら、答えなよ。僕、そんなに気が長くないからさ。
まぁ、返答次第ではどうなるか分からないけどね」
「…そいつを返せ」
「あれ、珍しい。狐の神様がこんな人間の女の子一人にそれほどご執着とは。何か訳ありみたいだね」

 狐神は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
 弱みを握られてしまえば、たとえどんなに力で勝ったとしても形勢は逆転してしまう。
 もう、素直に言うしかないよね……。怒られるのは分かっているけど、悪いのは私だけだ。
 正直に言わないと…

「あ、あのー…」

 なんとか声を出すけど、不格好に声が震えてしまう。
 必死に自分を落ち着けようと深呼吸を一回して、小刀をできるだけ気にしないように兎耳の人を振り返った。

「あの、私がこの枝を持っている理由をきちんと話します。実は…」

 ここまでの経緯を包み隠さず全て話すと、兎耳の人は驚いたように声をあげた。

「ってことは何?
君は枝に雪がかかっていたから払おうと手を伸ばしたら、そのまま枝を折っちゃったってわけ?」
「は…、はい……」

 うわー…、絶対怒られるよね……。
 怒鳴り声を覚悟して身を強ばらせていると、頭の上から豪快な笑い声が降ってきた。

「あっははははははっ!」

 ………はい?

 笑いのツボにはまってしまったのか、しばらくお腹を抱えて笑い続け、涙を吹きながら彼は刃物をしまった。

「あーあ、笑った笑った。まさかこんなどんくさい子がいるなんてね」
「ど、どんくさい…!?」
「クスッ。君、面白いね。本当は母さんを傷つけた人を殺すつもりだったんだけどなぁ。
なんだか気が変わっちゃった」
「殺す…?」
「初めはね。まぁでも、母さんを思ってやってくれた部分もあるみたいだし、仕方ない、か」

 溜息をついて神木を見つめる彼の横顔は少し悲しそうで、
私は自分のしてしまったことの重大さを改めて思い知る。

「母さんっていうのはその結界を守っていた神木のことか?」
「うん、そうだよ。ご存知の通り、僕らは君みたいに神力は持っていないからね。
いろいろあって、このご神木に力を分けてもらってたんだ」
「それで母さん、か…」
「じゃあ、私、あなたのお母さんを殺しちゃったってことになるのかな…?」

 震える手をぎゅっとしっかり握る。大事な人を失う辛さは、最近身をもって知った。
 それを私が…、私が奪ってしまったのならと考えると、胸が張り裂けそうになる。

 そんな私の様子を見て何を思ったのか、兎耳の人は私の頭の上に手をそっと置いた。

「ちょっと驚かせすぎちゃったかな、ごめんね。母上は傷を負っただけだ。
深い傷だけど、しっかり生きている。大丈夫だよ」
「で、でも…」

 拭いきれない気持ちが引っかかり、なかなか兎耳の人の言葉に素直に頷けないでいると、
今度は逆の方向から軽く頭を叩かれる。

「馬鹿な奴だな。何をしょげた面をしている。神木のことを一番わかってるこいつが、今は大丈夫だといっているんだ」
「う、うん……。ごめんなさい」

 精一杯に気持ちを込めて頭を下げる。
 兎耳の人は、君って本当に不器用なんだね、と言って笑うと私の背中を優しく叩いてくれた。
 その手の感触を感じながら、前向きになろうとしていると、不意に二人にまとう雰囲気が少し険しくなった。

「それはそうと、問題は…」
「うん、母さんが力を発揮できないから、壊れた結界の向こう側から、この町に瘴気が流れ込み始めている」
「ああ。どうやって瘴気を抑えるか、だな。祈祷できる者がいないとこちらから抑えることはできない」

 ちらっと神狐と目が合うがすぐに逸らされる。
 実際に、二人をこれほど追い込んでいる『瘴気』というものの片鱗すら、私には感じ取れない。
 何もできない悔しさに唇を噛んだ私を、兎耳の人がふと振り返った。

「じゃあさ、こうしたら?ねぇ、君。僕達に名前をつけてよ。それで僕達が母さんの代わりに結界を張ればいい」
「…へっ?名前?結界?」
「っ、お前っ!何を言い出すと思ったら…!名前などいらない。余分なことをするな」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。名前の一つぐらいいいじゃない。もう、狐君は器が小さいなぁー」
「そういう問題じゃないだろうっ」
「あー。耳元で叫ばないでくれない?狐君と違って、僕は耳がいいの」

 二人の言い争いが始まる。神狐が止めたがっている理由は気になるけど、
兎耳の人が頼ってくれたことだし、これは私にも出来ることだ。
 二人の名前、か……。
 あれこれ言い合う彼らを見つめる。

 月の光に溶け込むどころか、月の光を自分の物にするかのように
銀色に美しくそして艶やかに輝く姿――。
 冷たさも持ちつつ、触れてみれば優しくふわふわしていて消えてしまう。
 それでも散りゆくその時まで美しく咲き乱れるまるで雪のような――。

「決めたっ!」

 私の言葉を耳にした途端、二人がピタッと動きを止めこちらを見る。

「輝月に雪那!どう?」

 私がそれぞれを指差して名前を呼ぶと、辺り一面が眩い光に包まれた。
 私が唖然としていると、不機嫌そうにしている輝月と、嬉しそうにしている雪那が目の前に立っていた。
 靄のような白い光が、暗闇の中で二人を照らし出す。
 私にも伝わってくる…彼らが秘めていた、人間には無い力…。

「名前、つけやがったな。はぁ…、これで俺は縛られたってことか」
「雪那…か。気に入ったよ。
まぁ、これで契約結んだ代わりに、僕達は気兼ねなく力使い放題って訳だ。良かったじゃないの」
「それとこれとは話が違うだろう…」
「ちょ、ちょっと待って。えっとー、話の流れが見えないんだけど……」

 置いていかれているのは私だけみたい。
 二人は顔を見合わせると、私と視線を合わせた。

「えっとね、神主を務める人間から名前をもらうと僕達はその神主さんに仕えないといけないんだ。でも、その代わりに力が最大限に使える」
「俺達の力は人界で使うには強すぎるからな。制約がある。
契約によってその縛りは無くなるが、契約した神主を俺らは全身全霊を込めて守らないといけなくなる。…用をさっさと済ませて早く帰る予定だったんだがな」
「文句言わないの。ほら、狐君、行くよ」
「命令するな。それから、今は輝月だ」

 二人は私に背を向けて、虚空に腕を掲げた。私が見上げても、いつもと変わらない月夜だ。
 なのに彼らは、その一点を見つめて体に力を込める。ほんわりと二人を包んでいた光が一瞬で鋭さを増した。
 それぞれの掌から溢れ出す光が二筋の光になって、夜空に走る。
 その光はある高さで止まったかと思うと、さっと四方に飛び散った。

「わぁ…」

 ほんの瞬きの間だけ白い光の輪が見えて、それはすぐ闇に溶けるように霧散する。
 しばらく何かを探るように視線を走らせていた二人は、ふっと緊張を解いた。

「こんなものかな。初めて張ったにしては上出来かも」
「…その場しのぎにしか過ぎないけどな」
「いいんじゃない?とりあえずしのげるなら。
どうせしばらく、ここにいないといけないんだし」
「それもそうだな」

 二人が私に目を向ける。心なしか、苦笑をしているように見えた。
 けど、結界を張るというのは成功したみたいだ。
 いろいろあったし、よくわからないことも多いけど、今この時は心配ない。
 彼らの雰囲気からそれを感じ取って、私はそっと安堵した。